2009年11月7日
 単純に山、海、湖で捕獲、収穫した食糧を家に持ち帰って全員で食事するという最も基本的な活動の中で次第にその方式, 態様といった面が変化して来て現在のスタイルが構築されていますが、地球が1秒1秒回転していて変化を繰り返していますから、人間も将来食事の面で必ず変化をもたらすのではないでしょうか。自分の家で料理の下ごしらえをして火を起こして調理する。これが普通の様式だったのですが、時代の流れで中間調理段階の食材を提供したりで、料理の手間が省けるように成ったのは確かなようです。それと「食」そのものについて「一家団欒」的雰囲気の中で食事をすることが少しずつ変化していることも事実です。集団で食事をするよりも「個食」の傾向が高いのは都市化の流れの中で仕方がないのかもしれません。「個食」には集団食中毒の危険性がないからOKであるという人もおられますが、考え方は人それぞれ。状況に応じて臨機応変に対処すればいいのかもしれません。色々の人が色々の考え方で生活している複雑な社会の中で自分のキチンとしたライフ・スタイルを確立すれば周りのことは全て「参考事例」。どうぞ御自由に、ということかもしれませんが、社会は1人1人が「歯車」ですから、隣人の行動なり考え方も良く話し合ってお互いが納得することが大切なようです。メーカー側の人間は品質の高い製品を製造、販売すれば、それで仕事完了ですが、区議会議員の話では自分達の仕事は区民1人1人に直接会って話を聞くのが仕事、100人の区民は100の考え方を持って面談に応じる人が多いせいか、話を聞くときはどうしても「それも1つの考え方」として割り切って対応する。その人が帰った後、全く逆の考え方の人が来て意見をまくしたてて帰る。というようなことの繰り返しで大変だ、との感想を述べておられました。確かに、それが彼らの仕事であるわけですが、基本はやはり「人間」にあるようです。人間としてどこまで経験、体験を積んでいるか、見識が豊富であれば決断時の思考因子の数もそれだけ多いですから、的確な判断が下せるようです。個人レベルでの判断にしろ、集団レベルでの判断にしろ基本は全体の「幸福」ですから、その方向付けには或る程度の「路線」というものが暗黙の了解事項として存在しているのかもしれません。この暗黙の了解事項を良く知っている人が社会から「あいつは話の分かる奴」という評価を得ることが出来るようです。経験も1つの勉強事項、辛い人生ばかりではなくて、それが将来の明るい状態を生む可能性がありますから、淡々と生きる姿勢だけは崩さない方がいいようです。

2009年11月6日
 「人生で成功にのみこだわるのは考えものであるかもしれない」との表現をしますと社会での出世を夢に毎日刻苦勉励の人達の気持ちに水を差すことなりそうですが、これは一面では人生上の「真理」を表現しているかもしれません。
 某地方の農産物を船に積み江戸の町へ大量に運んで大儲けをした豪商が昔いましたが、その豪商の名前を知っている人が21世紀の日本にどれだけの人数いるでしょうか?歴史小説が好きな人を除いて、ほんの100人にもならないと思います。その豪商は自分で成功したとは思っていないかもしれません。「ただ、このうまい果物を江戸にいる大勢さんに食べてもらいたい」という一心で荒れた海の波をものともせずに乗り出したのではないでしょうか。心の底に「相手を思いやる気持ち」が絶対あったと言えます。それでなければ、荒くれ男達の船乗りをコントロールしながら無事にその果物を江戸の町まで運ぶことは出来無かった筈です。1つの大きな「目標」に向かって歩くとき、右、左からの「ちょっかい」は取るに足らない些細なこと。世間はそうした些細なこととして軽く受け流すようなその人間性の持つ腹の太さを「褒める」「あいつはすごい」となる。事の善し悪しは後世の人が決めること。今、世間で何が求められているかをキチンと把握して、それを1つの目標として商売なり社会福祉活動をするとき、必ず天からの助けやアドバイスが下りてくるようになっていますから、心を常に天に向けて頑張る姿勢をやはり天は見逃さずにちゃんと見ておられるのではないでしょうか。歴史を振り返れば全て何らかの「成果」を達成した人はこうした心を持っておられたようです。
 自分の出来る範囲で自分が自信をもって取り組める分野であれば結果にこだわることなく、淡々とその分野で一生懸命頑張れがいいし、結果は出なくともその間の努力は必ず次の仕事の1つの基礎になるようになっていますから、成功がなくとも失望することなく静かに前へ前へ進む態度を天は黙って見て居られるようです。そして時期が来れば、それなりの「御褒美」を置いて行ってくれるように仕組まれているのが、この世界かもしれません。「努力あるのみ」は何も理屈はいらない、世間一般の評価は気にしない、「我道を行く」姿勢を崩さない、との信念の下に今日も明日も、そして明後日も生き続けることにしています。

2009年11月5日
 ブログの内容は日々毎日の生活の中で体験、経験することから来る天啓の「ひらめき」がメインになっています。自分でテーマを決めて書くのではなく、キーボードに向かって打ち始めると自然に言葉が出る感じで方向付けもなく文章を書き進める中に色々のアイデアなり考えというものが頭に浮かんで来ます。
 人から「良く毎日書くことが出来ますね。何か秘訣でもありますか?自分もブログを書きますが、更新は1週間に1回くらい。ひどい時は1ケ月もブランクになったりします」との話を聞かされましたので、今日のブログはこれをテーマにしてみます。
 とにかく書き始める。これは絵を趣味にされている方には御理解頂けると思いますが、1つの絵を描き始める中、何回もその絵から離れて全体の色合い、事物のバランスを見ながら何回も修正の手を加えて完成へと近ずけて行きます。古今東西、有名画家の作品もこうした「修正、修正」「訂正,訂正」という作業の積み重ねでやっと完成したものばかりです。「モナリザの微笑」も現代科学のお蔭で原画そのものに手を加えることなく下書きの状態を見ることが出来るようになりました。そこにはデッサン段階での数回にわたる描き直しの痕跡があります。あれだけの著名な作者ですら、その下書きには何回も修正があった。ましてや一般素人のブロガーであれば絵の場合と同じ様に訂正は当たり前ですから、とにかく、書き始める、という姿勢が大切なようです。書き手と読み手の違いはあったにしろ両者間に「あるテーマ」についての考え方の共通性をみつけながら進めるというのが正解かもしれません。
 戦後間もなくの時代にヒットした映画に「君の名は」がありますが、この作品は女優さんが撮影当日、風邪のためロケ不能になったことから、男優との逢瀬シーンで女優が登場しないことに台本を書き代えての撮影に。ところが、この流れが当時の女性の観客の涙を誘うことになり爆発的ヒットとなった、という裏話があります。
 これと同じ事が色々の分野でありますから、「とにかくスタート」の精神で物事に取り組む中に違った方向に進み始めたにしろ結果が出れば全てOKであるというくらいの軽い気持ちで着手すればいいのではないかと思います。人間のやることは1から10まで全て天の神様が見て居られるので、自由な発想で取り組みながら少しずつ少しずつ修正を加えるようにして完成させれば問題はないようです。
 限られた時間しか人生にはありません。スタートを考えるのに1時間も浪費するより行動しながら考えるという姿勢に天からのアドバイスなり示唆といった類のものが下りて来る仕掛けがあるのかもしれません。

2009年11月4日
  今朝は個人的野望用のため早めにPC作業をかたずけてその準備。で、近くのコンビニへ簡単な買い物。レジを済ませてその店を出ようとしたところ、入り口近くで20代のお客さん3−4人が笑い声を出して何やらにぎわっている。何が面白いのかちらっと見ますと、コピー機の前。仲間の1人が顔を紙にみたてて透明コピー・ガラス面に接触させ別の仲間がスイッチ・オン。で、コピーし終わって出て来た「作品」の顔に皆で大笑いの状態。たかが1枚10円のコピー用紙ですから、値段の面は問題ゼロ。10円で仲間同士が大笑い出来るのは廉価なレジャーかもしれません。普段、人の顔を撮影するときは写め付きのケータイか一眼レフ・カメラか、バカ・チョン・インスタント・カメラが主流。撮影されて完成した映像も生の顔とあまり違いが無いため感動がないようです。しかし、普段は書類とかをコピーする機械で人の顔をコピーすることは無いため、顔をコピー・ガラス面に接触させる段階でほっぺた部分がゆがんでいますから、コピーされて出て来た顔の状態の「意外性」に皆で大笑い。店中に響くような声で皆さんが笑っている。やはり「笑いは急激な優越感発生の時」という原則は、ここでも通用しているようです。コピーされている顔に優越感を感じる仲間も仲間ですが、これは人間である以上、仕方のない点かもしれません。現代はコンピューター・グラフィックで主人公の顔をはじめ容姿を自由にデフォルメすることが出来ますが、プロ仕様のコンピューター・グラフィックはそれなりに値段も高いですから、一般素人さんには手が出ません。このブログの読者さんの中でカメラ関係に強い人に1つのヒントになるかどうか分かりませんが、素人が簡単に楽しめる撮影技法として顔を諸種の動物顔にデフォルメ可能な簡単システムの開発をされてはどうでしょうか。家で飼っているワンちゃん、ニャん子に似た顔に撮影出来るとか、パンダ着ぐるみ状態に近い顔、などなど被写体の普段とは違う顔の状態を見ることが出来る上、普通の撮影の時は普通に撮影も可能というような「笑いを取るのが主目的の」顔オプション・システムの如きものの開発が待たれるところです。
 ほんの10円で、あれだけ笑いを呼ぶというのは日本全国の20代年齢人口数を考えてみますと、これは隠れた市場かもしれません。勿論、人それぞれ容姿劣等感を持っている人もおられますから、デフォルメのみを気心の知れた仲間同士で楽しむ分には何も問題はないようです。
 世間では世代間での「常識」に違いがあるのは当然ですから、1つの世代が心から楽しんでいる対象について別の世代がアレコレ批判する筋のものでもないし、価値観は1億3千万あって当然なんだというくらいの「腹の太さ」が21世紀現代社会では要求されているようです。違いを違いとして受け入れ、認めて、その違いの中に何か商売上のヒントになるものはないかと、視点を変えてみるのも別の意味で新鮮なアイデア誕生の手がかりになるかもしれません。

2009年11月3日
 今日は都内某所で恒例の色々の「授賞式」が開催されますが一般庶民から見た「雲上人」同士が「あんたは偉い」との「褒めゴッコ」をする日でもあります。
 宇宙空間から見たサイズが「砂粒」程度の地球の上で一体何の目的で人間が存在し、1日1日を生きて居るのか良く考えてみれば古今東西多くの諸先輩も悩み抜かれた「真理」そのものが不在であって、思考する対象にもならない実に取るに足らないテーマであることが分かります。「真理」という言葉は人間が勝手に考え出した「造語」であって、この広大無辺の宇宙そのものについて未だ解決出来ていない面がある以上,「真理」がどうのこうのと言葉を弄したところで全く「答え」はありません。歴史上の「偉人」は後世の人間が勝手に祀り上げた虚像であるという面もありますから、言葉を使用しての表現でその偉人の誕生から帰天までの一生を語り尽くすこと自体が不可能であるような気がします。「作られたイメージ」としての「偉人」であってみれば21世紀の我々は表面的なことに振り回されることなく、真実がどこにあるのかを静かに観察してみるのも必要なようです。「付和雷同」「烏合の衆」「有象無象」などなど一般庶民を愚弄した表現がたくさんありますが、こうした「造語」の数々に影響されることなく自分を大切に生きる姿勢も重要な気がします。人生を「成果」という物差しでのみ振り返る必要はないし、「成果」がない事を失望する必要もないようです。或る年数、キチンと生きて帰天する命そのものが人間であり自分であるとの理解に基礎を置くとき、「成果」は問題ではありません。「褒めゴッコ」が好きな人はやればいいし、仲間に入れて貰えなかったら貰えなかったで、それ以上でもないし、それ以下でもない、ただ事実があるだけの話。との考え方もあっていいのではないでしょうか。所詮「褒めゴッコ」が世の中ですから、あまりこうした「成果」主義にこだわるのは精神衛生上良くないようです。
 自分の命は天地万物一切を創造された創造主の「被造物」であるとの完全理解があれば、世間の雑事は全て単純な「イベント」の1つであるとの達観も出来るようです。00勲章が金券ショップで販売されていたことがあります。多分その店に持ち込んだ受賞者は「俺の人生って、こんなものだったのか。幼稚園生がもらって喜ぶペンダントかー、この勲章は」くらいの感想を持って手離されたのかもしれません。本当の価値は「神が与えてくれた命を最後まで全うして初めて神が決める」ものではないでしょうか。そんな気がします。とにかく生き抜けばいい。生き抜けば、工場でバケツの中に抛り投げられて製造されている00勲章なる物体の所持者であろうとなかろうと、そんなことは問題にならないようです。全てに感謝、神に感謝の姿勢こそ価値があるのかもしれません。