2008年10月7日
 文章は脳からの神経伝達で口、手、指を通じて外部へ出される1つの情報伝達手段である事は頭で理解していても、実際にその伝わり方を脳内での発想の段階から「なるほど、なるほど、こうして伝わって行くのかー」と確認する手段については今のところ無いようです。
 他にも楽器の演奏をされている人達を観客席から見ていますと演奏中に楽譜に目を通すのはほんの一瞬であって9割近くは見ておられないようです。頭の中でメロデーが流れると指が自然に鍵盤のキーを押さえ、弦を押さえている。練習に次ぐ練習で「体に覚え込ませた」結果が演奏を自由に楽しめる状態となっている。
 或る演奏家の人が対談記事の中で言われていました。ーー小学校に行く頃親から強制されて楽器の演奏を「習い事」としてやらされた。帰宅してランドセル放り投げて外へ遊びに行くつもりで玄関のドアを開けようとしても開かない。満身の力を込めて押しても開かない。おかしーな、ってんでヒョイと上を見ると親がしっかりと手で押さえていて開かない状態。「練習日だろう今日は、遊ぶのは練習してから」。遊びたい年頃に練習となると親は厳しかった。もう指先から血が出る状態でも弦を抑えて、泣きながら練習させられた。ーー
 1つの習い事で指先から血が出るまでというのは実にすさまじーものがあります。某弁護士先生も学校行ってる頃、鉛筆で文章を書いて書いて書きまくったとか。指先に血豆が出来る、それが鉛筆の角に当たって潰れる、血が出てノートが真っ赤に染まったこと無数回。
 楽器演奏家は国際コンクールでグランプリ獲得、弁護士先生は都内有数の場所で立派なオフィス・ビルを構える名士に。「努力あるのみ」は指先から血が出る程の勉強をした経験はゼロ。全く恥ずかしい話です。
 1つの事を成し遂げるには人の知らない陰での努力、苦労が必要であるのかもしれません。「ウサギとカメ」にある童話の世界での話はそのまま実際の社会にも当てはまるようです。フンギャーと誕生してすぐに微分方程式が解ける訳はないし、絵筆を手にピカソ並みの絵が描ける訳でもありません。やはり、今、名をなしておられる人達にはそれなりの「努力」があったようです。日本人は成果についても謙虚で奥ゆかしい民族性のせいか余り人に対して得意がるということはありませんが、世間は見ている人は見ている。天も見ておられる。1日1日の「努力」が鍵かもしれません。
 巷間、「ノウハウ」本が書店に氾濫状態。これも一般庶民の少しでも良くなりたい、あこがれのあの人のように経済的に豊かになりたい、スポーツ、趣味、仕事面などなど目標を達成したい、願望を実現したい等を「この本読めば、お手軽に入手出来ますよ、是非、どうぞ」の姿勢が出版社に見られるようです。
 親しくして頂いているメンターSYさんも日本では考えもつかない極寒のチベットで長期間、修行をされたとか伺っています。やはり、人には人それぞれの努力が積み重ねられている。公的機関から民間へのいわゆる「天下り」を英米人は「パラシュート降下」と表現するようですが、富士山の頂上にパラシュートで降りて「頂上を極めました」とは言えないし、これを言う御本人自身が自分の「ずるさ」を充分知っているせいか、嬉しさが顔に出ない。心の中は、むなしさで一杯。
 OOOメダルが金券ショップのショーウインドーに陳列されているのを見たことがあります。手離した人の事情は良く分かりませんが、工場のバケツに放り込まれて次の組み立て段階で作品として出来上がった物がブルーフェルト生地が貼ってある箱に収められ「お偉いさん」から手渡されるだけで世間の絶大なる評価を受ける光景を見ているせいか、そのメダルを受ける御本人も自分が偉くなったと勘違いをされている面があるようです。多分、金券ショップに売った人は自己嫌悪に襲われてのことかもしれません。
 「自分を褒めてあげたい」という言葉はよくスポーツ選手がインタービュー時に言うセリフですが、確かに自分の今までの努力は自分が一番良く知っている訳ですから、無理もないと思います。努力の結晶がOOメダルだったり、表彰状の形で残る。ボランチア活動をされている人達も「天に宝を積む」行為をされていますから、自信を持って頑張って欲しいと思います。人間が人工的に製造したものとは違って、天から褒美として与えられる「名誉」としての気持ち上の満足感は、その人自身を人間的に成長させる賜物になる可能性が高いようです。うーん、やはり努力あるのみかなー、よし、頑張ろう。